新米主婦の奮闘日記
起業をめざした新米主婦が日々の奮闘を綴る。
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燃えよ剣 上下 (司馬遼太郎)
 新撰組のことって何も知らなかった。
イメージは、鉢巻に水色のお揃いの制服。
とにかく強い正義の味方。
そういう漠然としたイメージしかなかった。

読み始めてまず最初に感じたのは、
「この人たち理解できない」という感覚だった。
剣になにがなんでも正義を持たせ、そのために命を懸けるところや、
幕府に対する忠義、性に関する考え方。
昔の人はこういう考え方だったのかと、
現代の生き方とは全く違うんだなあと思った。
本の冒頭から既にその世界観に「???」

ここで主役になっている土方歳三。
好きな人も多いみたいだが、
もちろん著者の司馬さんも好きだから書いたんだと思うが、
どうしても私には共感が難しい遠い人だった。
どうしてそういう考えになるのかは読んでいてわかるが共感は難しい。
私なりに共感しようと書いてみる。

土方はとにかく剣の人。
幕府のために働くが幕府のためというよりは
剣のためだったのかなと思う。
近藤勇のように幕府に認められたいとか
力を持ちたいとかそういう考えも無い。
好きになった女性もいたが結局土方は死にに行ってしまう。
負ける死ぬとわかっていて戦争に行くのだ。
新撰組を組織し統制していくが、
隊長は近藤勇だが実質の隊長は
副長の土方だったのではないかと思う。
土方は近藤をリーダーにしたてていく。
自分がやりたいことをするには
近藤に長になってもらわなければ都合が悪いから。
土方は寡黙で遊んだり騒いだり、議論したり、
そういうことは全くしない。
そういう土方はリーダーには向いてない。
だが理想の新撰組を作っていくために規律を作ったり、
近藤に助言したり。
理想の新撰組から外れるものは斬ってしまう。
理想とは剣の正義。

最後、箱館で討ち死にするが、
そのときは新撰組はほとんど離散状態。
最後は孤独だった。
子供のころからの仲だった近藤もすでに
新政府に捕らわれている。
それに価値観も近藤とはズレてきていた。
沖田総司も病で死んでいる。
おそらく好きになった女性だけが
土方のことを心配していたのではないかと思う。

土方は歴史の新しい流れに
どうしても乗りたくはなかったのではないかと思う。
明治になる前に正義のもとに死ねて
返って幸せだったのかもしれない。
読み終わった後、読んでる最中もだが、ず〜っとむなしい気持ちで、
なかなか本の世界から抜け出せない自分がいた。

関連記事→龍馬ゆかりの地へ
      →本当の龍馬って??
      →勤王って?
最後の将軍−徳川慶喜−(司馬遼太郎)
 私が最初に慶喜を知ったのは「龍馬伝」。
眉毛がなくて、なんだか威圧的な感じの
わがまま将軍という印象だった。
司馬遼太郎の最後の将軍を読んでみると全く印象が違っていた。
果たして本当の慶喜はどういう人だったのかは
会ってみないことにはわからないが、頭の良い人だったようだ。

私が初めて読んだ歴史小説、
「最後の将軍−徳川慶喜−(司馬遼太郎)」。
今もいろいろと読んでいるが少しづつ書き留めてみようと思う。

 慶喜が将軍になるまでにはいろいろな偶然が重なった。
慶喜は将軍家には生まれていないのである。
それがどうして将軍になりえたのか。
様々な偶然と周囲の思惑が彼を将軍にした。

父は水戸藩第9代藩主徳川斉昭。
水戸は徳川将軍家の分家の一つであり、
分家には他に紀州、尾張があり、水戸と合わせて御三家という。
この御三家のうち水戸は、紀州・尾張に比べて
石高や官位が低いために、将軍家に世継がいない場合、
紀州・尾張から入ることはあっても水戸から入ることはなかった。

ただ、紀州・尾張と違って優遇されている点が1つあり、
参勤交代の義務がなく、
江戸屋敷に常住する特権が与えられていた。
斉昭は烈公とも呼ばれ、大変荒々しい気性の人で、
将軍とともに江戸にいることもあり、副将軍的意識が強く、
江戸城でもそういう気概をもってふるまった。
そのふるまいからも志士どもに英雄豪傑とはやされた。
また、好色だったために大奥の女性たちからは嫌われていたが、
好色のために子供も多かった。

斉昭の正室は京の有栖川宮家の王女 吉子。
その正室との子 七郎麿が後の慶喜である。
七郎麿に対する期待のためか
−男子は男子の手で育てられねばならない−と乳母を廃し
屈強の藩士二人を世話役とした。
幕府の法では大名の子は江戸屋敷で育てなければならない。
幕制では大名の子を人質と解釈している。

しかし斉昭は水戸家だけに特に例外を認めてもらっていた。
子が江戸で生まれるとすぐに江戸を離れさせ、
国もとの武骨な藩士の手で、京や江戸のような華やかさを
つけさせないよう水戸人たるべく育てさせた。
そして、厳しい躾と教育のなか、
武芸には熱心だったが読書がきらいだった。

そんな七郎麿(慶喜)は歴史のいたずらか何かの偶然か、
将軍という座へと自然に近づいていく。
父の斉昭の力も当然あるが、幕府老中阿部正弘(伊勢守)が
七郎麿(慶喜)に目をつけた。
阿部さんは七郎麿のことをよく知らない。
だが父の斉昭が大変期待しているらしいことは知っている。

また、外国列強に対抗するには水戸と手を組む必要があるとも
考えていたため、七郎麿を次期将軍に立てようと力を尽くした。
力を持ちつつあった福井藩主松平春嶽も
「いかなる犠牲を払っても一橋公(慶喜)を世子に立てねば、
日本は潰えるしかない」と言っていた。
春嶽も慶喜に会ったことないのに。。

前にも書いたように水戸家から世子が出ることは血筋から見ても稀。
「水戸様のお子ではお血が薄すぎるのではないか」と
陰口も聞こえてくる。
当の慶喜は将軍になるつもりはなかった。

また、阿部さんは薩摩とも手を組もうと考え、
薩摩藩主島津斉彬の養女篤姫を
現将軍家定に嫁がせようと画策した。
家定は精神薄弱?だったらしい。
母親しか家定が何を言っているか理解できない。
そのため、世継ぎが生まれることも期待できないし、
外国との問題もなんとかしなきゃいけないし、
とにかく早く次期将軍を決めなければならない。
将軍家には若死も多かった。
世継ぎが生まれてもすぐ死んでしまう子が多かった。
将軍を継ぐのには血が濃くないととか周りがいろいろ文句つけるから、
だんだん血が濃くなりすぎてそうなってたんじゃないかと私は思うが。

そんな動乱の中阿部正弘は病で死んでしまう。
ここで慶喜が14代将軍になる可能性が無くなってしまうかと
思われたが、慶喜擁立派は諦めない。

そこで出てきた彦根藩主で幕府大老の井伊直弼。
井伊直弼は水戸嫌い。斉昭嫌い。
将軍世子対立候補の紀州の慶福を推す。当時10歳。
井伊直弼は現将軍家定に「紀州好き、一橋好かぬ」と言わせたと
次期将軍は紀州の慶福(後の家茂)だとしてしまう。
証人は誰もいない。
慶喜は井伊直弼のこういうやり方に「井伊けしからぬ」と
井伊直弼と面会する。
慶喜が何を言っても聞いても井伊直弼はただただ
「恐れ入りまする」と言うばかり。
慶喜「紀州に決まったのか・・・・・左様で・・・・・・・めでたい」
「御奉公いたしまする」と言ってしまう。

将軍にそれほどなりたくはなかった慶喜だししょうがないのかな。
井伊直弼は大老で偉い身分だし、やることもキツイし
まわりも認めざるを得なかったのか。
そこで安政の大獄
斉昭や慶喜擁立派はいろいろと難癖つけられて
謹慎やら投獄やらさせられてしまう。
春嶽も土佐の山内容堂も謹慎。
慶喜は登城禁止→隠居慎。

家定の死。しばらく秘密にされていた。
実質将軍は家茂に。
桜田門外の変で井伊直弼斃れる。
井伊直弼が死んだことで謹慎は死後2年経つと解かれるそうだが、
慶喜は対外活動は何もしなかった。
読書、絵画・・・多能なため謹慎中楽しく?過ごしていた。
そのことが世論の慶喜像を巨大化していく。
そして将軍家茂の後見職に推されることとなった。

幕府は依然開国を迫られている。
朝廷からも睨まれている。世論も幕府の力の限界を感じてきている。
そんな中家茂も若死。まだ10代かな。
そして慶喜はあれよあれよと将軍になった。

頭がよく、自分なりの筋を通す人だが、
周りには理解できないことがたびたびあった。
将軍になって初めのころは威厳を持っていた。
世論も幕府がおかしなことをするのは
将軍の側近のせいだと暗殺する。
一人だけではない。
次の側近も。。。。
それがだんだん四侯(春嶽、容堂、島津久光、伊達宗城)からも
嫌われてくる。そんな状態で大政奉還へと向かっていく。
佐幕派には大政奉還なんてありえないことだったが
慶喜や日本の将来を憂える人たちにはとても良い手段だった。
新政府ができ、幕府の領地は没収され、
将軍は将軍職を退き、静岡に居住。
野心を持たず静かに過ごしていたらしい。
明治には貴族院議員に就くが、数年後辞し、隠居。
77歳で死去。

偶然とは言え、歴史の波に大きく関わり、
数奇な人生を歩んだ人だなあと不思議な気持ちになった。
いつも幕末本を読んだときに感じることだが、
江戸時代から明治時代に移るのってすごい違いで、
全く違う時代にタイムスリップしているみたいに不思議。
明治の発展ぶりに驚くばかり。
上野動物園も明治にできたらしいし、
ついさっきまで武士の時代だったのに・・・。

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      →本当の龍馬って??
      →勤王って?
坂本龍馬追悼&ちょこっと江ゆかりの地
2011年11月15日、京都酢屋で行われる龍馬追悼式に行ってきた。
京都に来たからには是非行ってみたいと思っていたので
長男を幼稚園に預けてから次男を連れて急いで行ってきた。

10時30分から始まるのだがギリギリ遅刻。
平日にもかかわらず結構な人だかり。
小さな子供連れなんて私だけ〜〜〜。。。
おじさんおばさん若者達だらけ。
おじいさんが小さな子供連れの私に良い場所を譲ってくれた
3歳の次男が静かにしていられるか不安だが・・・。

私達が到着したころには酢屋の女将さんらしき人が
追悼のお話しをされていた↓


女将さんのお話しに
なんだかじ〜んとしてしまい、恥ずかしくも目に涙。
女将さんもここにいるみんなも心から龍馬を偲んでいるんだな〜と。
勝手に、龍馬がここにいるかような気持ちになった。

酢屋の近くにある龍馬が暗殺された近江屋跡でも
追悼式が行われていたらしい。
市長もそこにいたそうだ。

女将さんのお話の後、
市長代理や高知から来た議員さんやらからもお話しがあり、
その後、女将さんから順番に、龍馬の写真のあるところで
一人ずつ手を合わせていった。

手を合わせた後、お酒が配られるのだが
その紙コップが酢屋2階への入場券となる。
いつもは酢屋2階に上がるには500円かかるのだが
この日はお酒を受け取った人はそれがいらない。
お酒を配る時間に間に合わない場合は残念ながら有料となる。
そういう人もいた。

どんどんと2階へ人が入っていくがまもなく2階はいっぱいに。
子連れなのでなるべく最後に入ろうと待っていたので
2階が少し空いてくるまで1階の木工屋さんで待つ。

1階にはちょうどクリスマスの商品がならんでいた。
木製のツリーとかツリーに飾るものとか。
あとは木製のおもちゃなどもあったので
それらを見ながら時間をつぶす。

また、集まっている人たちは龍馬が大好きな人たちばかり。
だってこんな平日の朝にわざわざ来るんだから。
だからなんとなく連帯感が生まれてくるようだ。
知らない人同士話をしたり、
親切にしたりされたり。
次男もおじいさんに遊んでもらう。

そのおじいさんと話していた私と同じ年代くらいの
スーツの男性は作家のようだ。
おじいさんに名刺をわたしていた。

私はこの近くにあるという岡田以蔵の刀傷が
どこにあるか知りたかったのでおじいさんに聞いてみるが
ちんぷんかんぷんな答え。。。
その作家にも聞いてみたがこれまた知ったかぶりの答え・・・。
な〜んだ、しょうがねえ。
知らないなら知らないとはっきり言えばいいのに・・。
男ってしょうがないわ〜。なんて思いながら。。。

やっと、酢屋2階へ。
普段は展示していない龍馬の使用していた道具などが並ぶ。
女将さんがいろいろと説明をしていた。
人だらけだけどなんとか一通り見て降りてきた。
狭いからそんなに時間はかからない。
次男の「おしっこ〜」も心配なので早々に。

せっかくなので以蔵の刀傷を探しに。
以前も見に来たが見つけられなかったが、
今回はそこと思われる場所にカップルがいて、
蝶ネクタイのお兄さんと話をしているのが見えた。
もしかして〜?と声をかけてみる。
案の定、以蔵の刀傷の話をしていた。

最近通り抜けができないように扉がついたそうで、
子どものウォークラリーなどで使うとき以外は
扉が閉まっていて見られないとのこと↓

とっても怪しいけど、扉の穴から覗いて見てみたが確認不能。
普通の民家だからしょうがないね〜。
そのウチの人に尋ねる時間もなかったので断念。
というわけで写真だけとってきた。
あ〜顔が熱い。。。
写真を撮っていたから恥ずかしかったわけではなく
酢屋でもらったすこ〜しのお酒で顔が熱い
きっと顔が真っ赤なんだわ〜。
真っ赤な顔なのに人の民家撮っててかなり怪しい。
しょうがないけど、真っ赤な顔でウチまで電車で帰りました。

ところで蝶ネクタイのお兄さんが気になる方、
近くのお店の店員さんでした。
よくこの辺でうろうろとしている人がいて
刀傷についても聞かれるんだって。

別の日。
びわ湖ホールに用事があったので
あまりにもきれいな琵琶湖を撮ってきた↓

天気も良くてサイコ〜。
帰りに琵琶湖を望むカフェでお茶して帰ってきました
お江さんのゆかりの地です。

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亀岡コスモス&亀岡祭
亀岡運動公園のすぐ隣の畑では
毎年9月下旬ごろからコスモスが満開になる
中にはお花のアーチなどがあり、とってもきれい。
ただ、期間中は中に入るのに入場料がいるらしいが
外からでも十分きれいよ。
自由に花を摘んでも良いみたいで、
花束を持って歩いてる人もいた。
ちょっと曇りの日だったので写真が暗いけど↓


10月29日、亀岡祭に行ってきた。
祇園祭の山鉾にそっくりだけどちょっと小さめの山が
たくさん出ていてたくさんの提灯がとっても優雅。
辺りの道路沿いにも灯篭が並べられていて幻想的。

近くの広場ではお店がたくさん出ていた。
よくお祭で見るような露店ではなく
その地区の人たちが自分達でお店を出している。
私達はカレーとたこせんべいを食べた。
意外においしかった
他の場所でもぜんざいを出していたので食べ、
子供達には小さなお菓子袋をくれた。

亀岡はもともと丹波亀山だったそう。
三重県の亀山と混同するので変更したらしい。
明智光秀が城を建てたことでも有名なんだって。