新米主婦の奮闘日記
起業をめざした新米主婦が日々の奮闘を綴る。
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最後の将軍-徳川慶喜-(司馬遼太郎)
 私が最初に慶喜を知ったのは「龍馬伝」。
眉毛がなくて、なんだか威圧的な感じの
わがまま将軍という印象だった。
司馬遼太郎の最後の将軍を読んでみると全く印象が違っていた。
果たして本当の慶喜はどういう人だったのかは
会ってみないことにはわからないが、頭の良い人だったようだ。

私が初めて読んだ歴史小説、
「最後の将軍-徳川慶喜-(司馬遼太郎)」。
今もいろいろと読んでいるが少しづつ書き留めてみようと思う。

 慶喜が将軍になるまでにはいろいろな偶然が重なった。
慶喜は将軍家には生まれていないのである。
それがどうして将軍になりえたのか。
様々な偶然と周囲の思惑が彼を将軍にした。

父は水戸藩第9代藩主徳川斉昭。
水戸は徳川将軍家の分家の一つであり、
分家には他に紀州、尾張があり、水戸と合わせて御三家という。
この御三家のうち水戸は、紀州・尾張に比べて
石高や官位が低いために、将軍家に世継がいない場合、
紀州・尾張から入ることはあっても水戸から入ることはなかった。

ただ、紀州・尾張と違って優遇されている点が1つあり、
参勤交代の義務がなく、
江戸屋敷に常住する特権が与えられていた。
斉昭は烈公とも呼ばれ、大変荒々しい気性の人で、
将軍とともに江戸にいることもあり、副将軍的意識が強く、
江戸城でもそういう気概をもってふるまった。
そのふるまいからも志士どもに英雄豪傑とはやされた。
また、好色だったために大奥の女性たちからは嫌われていたが、
好色のために子供も多かった。

斉昭の正室は京の有栖川宮家の王女 吉子。
その正室との子 七郎麿が後の慶喜である。
七郎麿に対する期待のためか
-男子は男子の手で育てられねばならない-と乳母を廃し
屈強の藩士二人を世話役とした。
幕府の法では大名の子は江戸屋敷で育てなければならない。
幕制では大名の子を人質と解釈している。

しかし斉昭は水戸家だけに特に例外を認めてもらっていた。
子が江戸で生まれるとすぐに江戸を離れさせ、
国もとの武骨な藩士の手で、京や江戸のような華やかさを
つけさせないよう水戸人たるべく育てさせた。
そして、厳しい躾と教育のなか、
武芸には熱心だったが読書がきらいだった。

そんな七郎麿(慶喜)は歴史のいたずらか何かの偶然か、
将軍という座へと自然に近づいていく。
父の斉昭の力も当然あるが、幕府老中阿部正弘(伊勢守)が
七郎麿(慶喜)に目をつけた。
阿部さんは七郎麿のことをよく知らない。
だが父の斉昭が大変期待しているらしいことは知っている。

また、外国列強に対抗するには水戸と手を組む必要があるとも
考えていたため、七郎麿を次期将軍に立てようと力を尽くした。
力を持ちつつあった福井藩主松平春嶽も
「いかなる犠牲を払っても一橋公(慶喜)を世子に立てねば、
日本は潰えるしかない」と言っていた。
春嶽も慶喜に会ったことないのに。。

前にも書いたように水戸家から世子が出ることは血筋から見ても稀。
「水戸様のお子ではお血が薄すぎるのではないか」と
陰口も聞こえてくる。
当の慶喜は将軍になるつもりはなかった。

また、阿部さんは薩摩とも手を組もうと考え、
薩摩藩主島津斉彬の養女篤姫を
現将軍家定に嫁がせようと画策した。
家定は精神薄弱?だったらしい。
母親しか家定が何を言っているか理解できない。
そのため、世継ぎが生まれることも期待できないし、
外国との問題もなんとかしなきゃいけないし、
とにかく早く次期将軍を決めなければならない。
将軍家には若死も多かった。
世継ぎが生まれてもすぐ死んでしまう子が多かった。
将軍を継ぐのには血が濃くないととか周りがいろいろ文句つけるから、
だんだん血が濃くなりすぎてそうなってたんじゃないかと私は思うが。

そんな動乱の中阿部正弘は病で死んでしまう。
ここで慶喜が14代将軍になる可能性が無くなってしまうかと
思われたが、慶喜擁立派は諦めない。

そこで出てきた彦根藩主で幕府大老の井伊直弼。
井伊直弼は水戸嫌い。斉昭嫌い。
将軍世子対立候補の紀州の慶福を推す。当時10歳。
井伊直弼は現将軍家定に「紀州好き、一橋好かぬ」と言わせたと
次期将軍は紀州の慶福(後の家茂)だとしてしまう。
証人は誰もいない。
慶喜は井伊直弼のこういうやり方に「井伊けしからぬ」と
井伊直弼と面会する。
慶喜が何を言っても聞いても井伊直弼はただただ
「恐れ入りまする」と言うばかり。
慶喜「紀州に決まったのか・・・・・左様で・・・・・・・めでたい」
「御奉公いたしまする」と言ってしまう。

将軍にそれほどなりたくはなかった慶喜だししょうがないのかな。
井伊直弼は大老で偉い身分だし、やることもキツイし
まわりも認めざるを得なかったのか。
そこで安政の大獄
斉昭や慶喜擁立派はいろいろと難癖つけられて
謹慎やら投獄やらさせられてしまう。
春嶽も土佐の山内容堂も謹慎。
慶喜は登城禁止→隠居慎。

家定の死。しばらく秘密にされていた。
実質将軍は家茂に。
桜田門外の変で井伊直弼斃れる。
井伊直弼が死んだことで謹慎は死後2年経つと解かれるそうだが、
慶喜は対外活動は何もしなかった。
読書、絵画・・・多能なため謹慎中楽しく?過ごしていた。
そのことが世論の慶喜像を巨大化していく。
そして将軍家茂の後見職に推されることとなった。

幕府は依然開国を迫られている。
朝廷からも睨まれている。世論も幕府の力の限界を感じてきている。
そんな中家茂も若死。まだ10代かな。
そして慶喜はあれよあれよと将軍になった。

頭がよく、自分なりの筋を通す人だが、
周りには理解できないことがたびたびあった。
将軍になって初めのころは威厳を持っていた。
世論も幕府がおかしなことをするのは
将軍の側近のせいだと暗殺する。
一人だけではない。
次の側近も。。。。
それがだんだん四侯(春嶽、容堂、島津久光、伊達宗城)からも
嫌われてくる。そんな状態で大政奉還へと向かっていく。
佐幕派には大政奉還なんてありえないことだったが
慶喜や日本の将来を憂える人たちにはとても良い手段だった。
新政府ができ、幕府の領地は没収され、
将軍は将軍職を退き、静岡に居住。
野心を持たず静かに過ごしていたらしい。
明治には貴族院議員に就くが、数年後辞し、隠居。
77歳で死去。

偶然とは言え、歴史の波に大きく関わり、
数奇な人生を歩んだ人だなあと不思議な気持ちになった。
いつも幕末本を読んだときに感じることだが、
江戸時代から明治時代に移るのってすごい違いで、
全く違う時代にタイムスリップしているみたいに不思議。
明治の発展ぶりに驚くばかり。
上野動物園も明治にできたらしいし、
ついさっきまで武士の時代だったのに・・・。

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